2.〜細胞〜 細胞の捉え方と仏教について

今日は仏教における生命感のその2としてお話させていただきたいと思います。前回は縁起についてお話させていただきましたが、今日はいのちの定義としてお話したいと思います。私たち人間にはもちろん「いのち」があります。おうちにいるワンちゃんにも、家に出るゴキブリにも、冷蔵庫に入ってるニンジンにも「いのち」があります。「いのち」=生物と考えるのが普通でしょう。ただし原始仏教では植物に関しては動物と異なる「いのち」の取扱をしています。有情の六道の考え方では植物は「いきもの」であるとは言えないでしょう。しかしパーリ律蔵では植物にも「いのち」があるとも考えられる記述があります。パーリ律蔵では「一根の生命」が植物にあるとされていて、樹木を伐採した人を愚か者であるとする記述がありました。また原始仏教では生の肉についても記述があります。生き物は死んでしまってもその生き物から取られた生の肉には「いのち」があるされています。先にあった植物に関しても後に発芽する植物の種子に関しては特別の「いのち」があるとされていました。次に生物学で「いのち」の話をしたいと思います。生物学的に「いのち」の定義はなんでしょうか。心臓が動いていることという人も多いと思います。間違いではないと思います。哺乳類を始め、多くの動物は心臓が動き、血液を全身に循環させることで恒常性を維持しています。でも、昆虫には血液はありませんし、ゾウリムシのような単細胞生物も生物として扱われています。私達、人間でも最小単位は一つの細胞と言えます。もちろん細胞より小さい単位として、タンパク質や遺伝子とすることもできそうですが、これは別の機会にします。例えばゾウリムシのような単細胞生物はその細胞一つで生きていますが、多細胞動物では細胞それぞれが違った役割をして一つの個体になっています。動物で言えば筋肉の細胞と骨の細胞は異なる性質の細胞です。それでもそれは一つの動物を構成する大切な細胞ですし、細胞一つ一つがその分身と言えるのではないでしょうか。ミドリムシのような単細胞動物でなくとも、私達の細胞一つ一つを取り出しても、環境を整えてあげればその性質は失われません。ビーカーの液体の中に筋肉の細胞を浮かべてきちんと管理すれば、伸び縮する性質は維持されますし、神経の細胞であったら電気信号を使えてくれます。でもこのような状態の細胞に「いのち」があると言っても多くの人は違和感を持つでしょう。しかし、ビーカーの中に池の水とミドリムシが入っていたらどうでしょうか。多くの人はこれを「いのち」と言っても多くの人は頷いてくれると思います。同じ一つの細胞なのに、この違いはなんでしょうか。

次回はこの細胞について仏教の観点からも考えていきたいと思います。